第6章~確信
オンライン小説~銀の騎士~剣と魔法のファンタジー物語
(8)
シュールは涙を拭ったが、まだ目はかすんでいた。
”ちくしょう、涙、止まれ!”
右手の袖で何度も何度も拭う。その時、幻が見えた。アルビンがこちらに手を差し伸べている。暖かく優しい空気が流れ込んで来て、足下や左右に刺々しく腕をのばしていた低木達が、途端にシュールに道をあけたような気がした。
アルビンのもとへ行く事だけ考えていたので、そんな幻を見たのだろうと思った。だが、もっと近付くとそれは幻ではない事がわかった。全身から焦りが沸き上がってくる。
まだか、まだか、まだアルビンに手が届かないのか。
こんなに走っているのに、あんなにハッキリ見えているのに。
心臓はとうの昔に爆発した。今シュールを走らせているのは、シュール自身の体力ではなく何か別の力だ。自分の足で走っているという感覚はまるっきりなかった。
あと少し、あと少し。
アルビンの姿が目に見えて大きくなる。もうその表情さえはっきりとわかる。
もう少し、もう少しだ。
シュールは急に止まる事が出来ず、アルビンにぶつかりそうになった。
「チチが……アルビン、頼む。早くチチを」
アルビンは何もいわず黙って頷いた。シュールの肩からチチをそっと受け取り、両手でしっかりと抱いた。アルビンはチチの身体が熱を持っている事に気付き、何か短くつぶやいた。魔法の言葉は普通の人間には聞こえない。だが、シュールにはアルビンが何か魔法をつかったのだとすぐにわかった。期待をこめて、今はアルビンの腕にあるチチを覗き込んだ。だが、チチの顔の右半分は、やはり痛々しく紫色に腫れ上がっていた。魔法といえどもそんなに簡単に治せるはずはない。わかっていはいたが、がっくりとして肩を落とした。
疲れが急激にシュールを襲った。
早足で歩き出したアルビンの後ろを、シュールはふらふらと付いて行く事しか出来なかった。
宿屋では怪我人が運び込まれると聞いて大わらわだった。まずは、二人が使っていた部屋に火鉢が運び込まれた。それから宿の主人は、大きな鍋で湯を湧かしはじめた。太っていて小柄なおかみさんが、転がるように廊下を走って、毛布や、清潔な布を捜しまわっている。
そうこうしているうちに、チチを抱いたアルビンが宿屋の扉をくぐった。
アルビンはチチの無惨に腫れ上がった顔が誰にも見えないように、マントのフードを深くかぶせた。
湯と水を入れた大きな木製の水差しを二つ持って、宿の主人が慌ててアルビンを追った。その後ろをおかみさんが、あちこちほころびた毛布と、真っ白い布を抱えて続く。アビは先導して、チチの部屋の扉をあけた。
「他に何か……?」
必要なものがあるかと聞きたかったが、宿屋の主人は最後まで言葉を続けられなかった。
アルビンがあまりに難しい顔をしていたので。
「もっとどんどん湯を湧かして下さい。怪我人はもう一人います」
「あ、はい」
宿屋の主人とおかみさんは、心配そうに何度も後ろを振り返りながらも、水差しを置いて出て行った。少し遅れてシュールが入って来た。
アルビンは清潔な布を小さく手で裂き、大きな木のたらいに湯を入れ、チチの荷物の中から薬草を選んだ。
アビはまだチチの顔を見ていない。
アルビンは治療の手を休めないまま、静かに言った。
「二人とも外に出ていて下さい」
「な、なんでだよ」
疲れきって無言でアルビンを見守っていたシュールが、一瞬身体をかたくして拳を握った。
「チチは身体中に傷を受けています。衣服をとらねば治療出来ません」
二人はのろのろと部屋の外へ出ようとした。
「アビ、シュールの足を洗って軟膏を塗ってあげなさい。やり方は前に教えましたね」
そういう間にも、アルビンは薬草を調合する手を休めない。
「……はい、わかりました」
アビが先に部屋から出た。シュールはまだ扉の前でジッと立っている。
「チチの……」
シュールは何か言いかけた。
「その……あれは……元通りになるのか」
傷が残るかも知れないと案じているらしい。
「すぐにとはいきませんが、いずれ傷は消えます」
シュールはもう何も答えずに出て行った。扉が静かに閉まった事を確かめてから、アルビンはチチのボロボロになった衣服を脱がせる為に、短剣を取り出した。チチの身体に負担を与えないように、傷のありそうな箇所の衣服を切り裂いた。頬にあるのとほぼ同様の打ち身が、右肩、右脇腹、右上腕、右大腿部にあった。
消毒、鎮静作用のあるマンネンロウ、気分を落ち着ける為のヤマハッカ、炎症を押さえ止血効果のあるハゴロモグサ、消毒殺菌作用のあるノコギリソウ、腫れを引かせる為のヘラオオバコなど、何種類もの薬草を手早く選り分けて調合して行く。本当はヘラオオバコの生葉があればもっとよく効くのだが、冬の間は薬草も採取出来なかった。
打ち身や腫れに効き、荒れた肌の回復にも役立つコンフリーの葉は、チチの持っていた薬草ケースに多めの入っている。これは怪我の治療以外にも、肌をやわらかく保つために、貴族の女性達が競ってもとめる薬草の一つだ。女の子であるチチが、この薬草を他より多めに持ち歩くのは当然だった。しかし、多いと言っても、こんなにひどい顔の腫れに使うには足りない量だ。
アルビンは、身体の打ち身には使わず、顔だけの為にコンフリーを残しておいた。少なくとも十日分以上残さなければならない。なぜなら冬期でなくとも、野生のコンフリーはこの近辺には見られなかったからである。
裂いた布にコンフリーを包み込み、薬効成分がしみ出すようによく揉みこんでから、少量の熱い湯をかける。熱で抽出された成分は布に満遍なくしみ込んで行く。これを取り出し冷ましておく。あらかた冷めたら少量の水で冷やして顔面を湿布した。
患部を清潔にして薬草で湿布すると、アルビンはその上に一つ一つ手をあてて、癒しの言葉を紡いで行った。少なくとも痛みは感じなく出来る。だが傷が一瞬で完治する訳ではない。あくまでも薬草の働きを最大限に引き出したり、完治を速めたり、痛みを感じさせなくするだけだ。
他にも小さな擦り傷がたくさんある。
一つ一つ丁寧に消毒して、すでにつくってある軟膏を塗る。それから、チチが目覚めた時の為に、よく眠れて精神安定効果のあるイノンドとラベンダーの内服薬を調合しはじめた。
火鉢に入れた木炭がだんだんと部屋を暖めている。暑いくらいだったが、治療の終わった身体の部分に清潔な布をかぶせ、もう一枚毛布をかけた。発熱はおそらく炎症によるものだろう。
最後にアルビンは水に浸したハッカの湿布を、熱を冷ます為にチチの額にのせた。それから何度も何度も、癒しの言葉を紡ぎ続けた。
廊下に出たアビは、シュールを部屋に連れて行ってベットに座らせた。朦朧としているのか、シュールはなすがままだ。よほど疲れたのだろう。アビはシュールが休めるように、何も話し掛けなかった。
部屋にはチチの部屋にあったのと同じような水差しが二つと、たらいが二つ、古い毛布一枚と真っ白な新しい布が用意されていた。アビはシュールの血だらけの足を洗う為、たらいに水とお湯を混ぜた。殺菌作用のある薬草がどれだったか思い出せなかったので、アビはそのままの温いお湯で、シュールの足を丁寧に洗ってやった。 足の裏に刺さった小さなとげも、丁寧に抜いた。
切り傷につける為の軟膏は、いつでも使えるように用意してあった。アビも素焼きのケースに入れて持ち歩いている。あとでアルビン様がきちんとした治療をしてくれるまで、綺麗に洗った傷に軟膏を塗っておくだけでも、かなりましだろう。
皮膚がベロンとめくれている右足の裏に、アビはたくさんの軟膏をそっと置いた。滲みるはずなのに、シュールに反応はない。アビはすり込むと痛いだろうと思い、軟膏をのせるように置いた患部を小さく切った布で押さえた。それから小さな傷に軟膏をすり込み、布で足をぐるぐる巻きにした。上手く巻けない。 同じように左足も、薬を塗って布を巻いた。
焦点の定まらない深い蒼色の瞳は、アビを見てはいない。アビはまたシュールがあの声に呼ばれているのではないかとゾッとして、急いで呼び掛けた。
「シュール、シュール」
肩を軽く揺さぶると、シュールはやっとアビを見てくれた。
「あ、ああ、終わったのか。……ありがとう」
「他に怪我しているところはないの?」
「ああ、大丈夫だ」
アビはシュールを着替えさせて身体を拭いてやろうと、くたびれた夜着の上着に手をかけた。シュールが咄嗟にアビの手を取る。
「あ、着替え、手伝うよ」
アビの言葉で、シュールは自分が汚い寝間着のままだということに、今始めて気が付いたらしい。
「ああ、あとは自分で出来るよ」
そう言ってあちこち綻びた夜着を脱ぎ捨てた。アビは濡らした布で背中を拭いてやった。シュールはその布をアビから受け取って、自分で腕や首を拭いた。
その間にアビがシュールのクローゼットから着替えを探そうとした。だが、シュールは着替えをクローゼットに出していなかった。革の袋にぐちゃぐちゃに丸めて入っている。アビは袋からシュールの服を取り出した。
「今日は寝ていた方がいいね」
そう言って下着を渡す。シュールはそれをベッドの上に座ったまま着たが、頷かなかった。
「俺は今日やるはずだった事をする。ここで休んでたってチチがよくなる訳じゃない」
「でも、チチがよくなるまではどうせ出発出来な……」
「チチは置いて行く」
アビの言葉を強く遮って、シュールは拳を握りしめた。そしてたった今布を巻き付けた両足でしっかりと立ち上がると、一瞬だけ表情をゆがめたが、あとは何でもなかったように、ズボンをはいた。そして、布で大きくなった足を、無理矢理革のブーツに押し込んだ。
「シュール、無理しない方が……」
「俺はなんともない。かすり傷だ」
アビはシュールが昔から言い出したら聞かないと知っていたので、一緒に村に出て聞き込みをする事にした。シュールが言う事を聞くのはチチだけだ。
チチは弱くて小さい女の子だから。
アビの胸がまたチクリと痛んだ。。
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