第6章~確信
オンライン小説~銀の騎士~剣と魔法のファンタジー物語
(9)
村の人たちは、ギルの大森林について何も知らなかった。黒い陰を見たとか、盗賊達が入って行ったとか言うひとはいたが、真実かどうかはわからない。それでもたった一つ、皆が口をそろえて同じ事を言った。
――あの森に入って出て来た者はいない――
夕方、宿屋に戻ってみると、部屋はすっかり片付いていた。
アビとシュールは、チチの部屋に様子を見に行った。アルビンがそばで小さな椅子に座って、額の湿布をこまめに取り替えたりしていた。部屋中に薬草の匂いがただよっている。
「チチは目を覚ましたか?」
シュールは元気のない声を出した。
「ええ、一回だけ。でも今は眠る事が大切ですから、薬をのませてすぐに眠らせました」
チチの痛々しい顔の腫れは、大きな湿布で隠されていた。けれど湿布の下が元通りになっているとは思えない。湿布の厚みを差し引いても、チチの顔の右半分は盛り上がって見えた。
「一体何があったのか、聞かせて下さい」
アルビンはシュールを真直ぐに見た。
先程チチが目を覚ました時、アルビンの顔を見ておびえたように取り乱した。幼いが気丈なチチがあんな風に取り乱したのを、アルビンは今まで一度も見た事はない。何かよほどの事があったに違いない。それは身体中の打ち身を見てもわかった。
「……ああ」
シュールが苦い思いでやっと返事をすると、アルビンはアビに、椅子を持ってくるように頼んだ。
アビが自分達の部屋から運んで来たスツールに、三人ともチチのベッドを取り囲むようにして座った。話の主導権はシュールが握っている。しかし、シュールは何からどう話してよいのかわからなかった。
誰も急かす者はいない。それがかえってシュールを落ちつかなくさせた。シュールは、ポツリポツリと昨日の晩あった事を話しはじめた。
シュールが知っている事はそう多くない。チチがどうやってそこに来たのか、誰が何の為にチチを打ちのめしたのか、シュールにはさっぱりわからなかった。
やがて知っている事を全て話し終えると、シュールは声に力をこめた。
「俺は……俺は……もう二度とあの声に引き込まれない。絶対だ。約束する」
言い終わらないうちに、無造作に立ち上がり、部屋から出て行った。
「……」
アルビンは無言でシュールを見送った。シュールが激しく後悔しているのがわかったが、あの声に引き寄せられるのは仕方のない事だ。シュールのせいではない。そう言ってやったとしても、シュールが自分自身を許せないと思っているのは変わらなかったろうし、慰めがシュールの心を軽くする事もないとわかっていたので、アルビンは何も言わなかった。
「アビ、シュールと二人で先に夕食を済ませて下さい。あとで交代してもらいますから。誰かが必ずチチのそばについていなければいけません。宿屋の人に言って、この部屋にもう1つベッドを入れてもらいましょう。それから。シュールも一人にしない方がいい。あの声は、いつ襲ってくるかわかりません。シュールの部屋にもベッドを運んでもらって下さい」
「わかりました」
アビは一言も聞き漏らすまいとしているかのように、真剣にアルビンの漆黒の瞳を見つめていた。
「アビ。チチは顔にひどい痣を受けています。チチがこれを知ったらショックを受けるでしょう。だから、痣がもう少しよくなるまで、チチが決して鏡を見ないように気をつけていてください」
アビは信じられないというように、チチの湿布が被さった顔を見た。
そして大きく頷いて静かに部屋を出た。
なぜこんな事になってしまったんだろう。昨日まであんなに順調だったのに。やっとベッドで眠れる事を、みんなあんなに喜んでいたのに。そうやって喜んで気を抜いてしまった罰があたったのだろうか。なぜよりによってチチに、こんな残酷なことが起こってしまったんだろう。
アビは悲しくなった。自分が打ちのめされた方がよっぽど楽だと思った。きっとシュールも同じ事を思っているだろう。あんなに辛そうなシュールは見た事がない。
昼にも何も食べていなかったが、アビは少しもお腹が空いていなかった。何か食べたいとは思わない。でも体力をつけておかなければ、いつ何が襲って来ても不思議じゃない。
アビは宿屋の主人に、アルビンに言い付けられた通りの事を頼んだ。主人は快く承知してくれた。それから、シュールを呼びにシュールの部屋に向かった。たぶん部屋にいると思ったからだ。
アビはノックもせずいきなりシュールの部屋の扉を開けた。シュールはいなかった。
また不安が押し寄せてくる。階段をかけ降り、入り口近くのカウンターで酒の準備をしていた宿の主人に、
「おじさん、シュール知らない? 蒼い目で灰色の髪の……」
息を弾ませて聞いた。
「ああ、さっき一人で外に出ていったよ」
「ありがとう」
アビは立ち止まらずにそのまま外まで走っていった。
シュールは宿屋を出てすぐの場所に突っ立って、空を見上げていた。アビが勢い余ってシュールの背中にぶつかってしまった程、扉に近い場所だ。シュールは緩慢な動作で振り返った。
「びっくりした。また……」
アビは言おうとした言葉を飲み込む。シュールを傷つけると気付いたからだ。
「……わりぃ」
「アルビン様が先に食事を済ませておけって。後でチチの看病を交代しようって」
「……わかった」
「シュール」
アビは元気のないシュールに、何か気の利いた事を言ってやりたいと思った。でも言葉が出てこない。チチの顔の痣の事も聞きたいが、聞かない方がいいだろうと思ってやめた。抜け殻のような足取りで宿屋に戻るシュールを見ていたら、悲しくて悲しくて涙が出そうになった。
宿のおかみさんに言って早い食事を用意してもらい、二人でテーブルについた。かたくなったライ麦パンと穴の空いたチーズ、それに芋の入った白いスープ。冬まで貯蔵しておける野菜は芋くらいのものだ。白い色はたぶんミルクだろう。怪我をしているシュールの為に、奮発してくれたに違いない。昨日は具の一つもない塩辛いだけの透明なスープだったもの。
でもそれを食べている間も、シュールはうつろな瞳で、心ここにあらずという風だった。
食事が済むと二人はアルビンと看病を交代した。アルビンはアビに、湿布の取り替え方と取り替えるタイミングを簡単に説明して、食事のために出て行った。かなり疲れているようだった。
「アビ、俺がやるからアルビンのところに行って来い」
宿の主人が入れてくれたもう一つのベッドに座っていたシュールが、立ち上がりかけて言った。
「え? でも……」
「大丈夫、やり方は聞いていた。アルビンだって一人で食事じゃ気の毒だろ。ここは俺にまかせてくれ」
ほんの少し冗談ぽくシュールが笑った。微かな笑みだったが、アビは嬉しかった。と、同時に寂しい気持ちにもなった。なぜだかわからない。
「わかった。でも気をつけてね」
「わかってるよ」
アビが出ていくとシュールはチチのベッドにのろのろと近付いた。立ったまま湿布が被さった顔を見る。シュールは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「俺は……」
握る拳に力が込められた。
「チチ、俺は……」
足下の羽目板の床に、涙が一滴二滴と落ちた。
「……あんたを二度とこんな目にあわせない。絶対に。何があっても。約束するよ」
シュールはそっとチチの上に屈んで、閉じられたままの左まぶたに口づけた。右半分の湿布の上と左の頬に、シュールの涙が落ちた。シュールは右手を震わせながら、そっとそっとチチの頬に落ちた涙の雫をぬぐい去った。そのままその柔らかい頬を右手で包み込む。左手をベッドの上の方について身体を支え、もう一度チチの顔に近寄った。そして今度はかわいらしい小さな唇に、目を閉じて口づけた。実際には触れていなかったかも知れない。でもシュールにとっては誓いのキスだった。
シュールは起き上がって、袖で涙をゴシゴシと擦った。
そして思い出したように、湿布を交換する為に布を薬湯に浸した。
もう、涙は乾いていた。
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